『心と他者』
- 作者: 野矢茂樹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2012/11/22
- メディア: 文庫
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1995年の原著に対する永井均の書評が、『科学哲学』vol.28 に掲載されている。
文庫化にあたって、大森が原著に書き遺したコメントが文庫版の注釈として収録されている(そして大森は1997年に亡くなっている)。このコメントというのは、多くは野矢の議論に対する批判であり、さらに、野矢による大森の書き込みへの応答も注釈になっている。つまり、読者は日本を代表する哲学師弟の問答を垣間見ることができるというわけだ。
これはすごい。
どうすごいかについては田島正樹による文庫版解説(がブログで公開されている)で説明されている。
注釈がどういう具合になっているかというと、たとえばこういう文章と注釈がある。
(…)では、意志することとは何なのだろうか。実は自分の場合にもよく分からないのである。独断的に私の意見を述べておくならば、いっさいの身体運動や状況と切り離された純粋に心の状態ないしできごととしての意志なるものなどありはしない、と私は考えている◆37。(…)
◆37[大森]これは私の意見
[野矢]はい。
(106-107ページ)
いかがだろうか。なんだか萌えるものを感じないだろうか。
さらに、次のようなくだりもある。感覚報告の一人称権威(ある人が実際に「痛い」かどうかについては当人の報告がなによりの判定基準になるという特別さ)についての議論の一節だ。野矢は下の引用に先立って、志向的内容があるかないかによって「知覚」と「感覚」とを区別しており、下の引用の「複眼的な眺望」とは「知覚」のことで、「単眼的な眺望」は「感覚」を指している。
(…)眺望が複眼的であるならば、視点状況を変えてよく見てみることもできるだろうが、単眼的な眺望はその眺めですべてなのであり、「もっとよく……」ということは考えられない。それゆえにこそ、感覚報告は、さらなる訂正や確認のゲームをもたず、その報告で打ち止めとされるのである◆84。
◆84[大森]否、複数の痛みを集めて「同一の痛み」を定義することをしない。それだけ!
[野矢]これが、「痛み」に関するわれわれの生活の中での定義の問題だというのは、大森の言うとおりである。それゆえこの書き込みだけに関して言えば、大森が私の何を否定したのかよく分からない。ただし、大森が感覚と知覚を区別しようとする私の議論全体に反対していることは確かであり、私としては、もっと議論を尽くして大森を説得したい思いでいる。
(185-187ページ)
ここでじんわりくるのは、既に亡くなった大森に対して「説得したい思いでいる」と現在形で応答する野矢のふるまいだ。野矢にとって、師匠・論敵としての大森という「他者」はまだ生きているのだと感じられる。
というわけで、哲学師弟の問答に萌え萌えしたい人は読むべし。