Hanna Can't Sleep - ハンターダーク・ラグジュアリーズ

「ねえねえ、眠れないの」
「うむ……羊でも数えれば良いのではないかな……」
◆◇◆◇◆
「一匹、二匹、三匹……どうしよう、もう終わっちゃった」

Rex Can’t Sleep - トイ・ストーリー・トリーツ

『ヒトはなぜ先延ばしをしてしまうのか』

人類最大にして最強の敵「めんどくさい」(by古谷実)。あるいは「本気出せばすぐできるんだから」「まだ余裕あるし、明日からやればいい」。そして「集中するためには、まずあれをやっておかないとな」。さらに「これが最後の一回、これをやり終えたら今度こそ取りかかろう」。
そして訪れるしめきり。守られない約束。なかったことになる抱負。でっちあげられたレポート課題。続かない筋トレ。増えていく積読本。更新されないブログ。SNS疲れにもかかわらず果たせないSNS断ち。
だらだら。めそめそ。ぐずぐず。
先延ばし。

ヒトはなぜ先延ばしをしてしまうのか

ヒトはなぜ先延ばしをしてしまうのか

邦題である「ヒトはなぜ先延ばしをしてしまうのか」という問いの答えは、第3章で神経生物学的に説明される。要するに、私たちの脳が「ありあわせ」の材料でつくられているからなのだ。そのため、長期的なゴールを達成するための意志を司る前頭前野は、反射的に働く辺縁系によって圧倒されてしまうことが多い。つい目先の誘惑に屈してしまいがちだ。その結果「意志と行動のギャップ」が生まれ、「自分にとって好ましくない結果を招くと知りながら、自発的にものごとを延期すること」である先延ばしが発生するのだ。

脳はあり合わせの材料から生まれた―それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ

脳はあり合わせの材料から生まれた―それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ

しかし辺縁系はけっして有害無益な部位ではない。辺縁系の衝動的ですばやい判断は人類にとってもつい最近(農業をはじめるようになった、今から9000年ほどまえ)までは、生き延びるために有益なありがたい進化の産物だった。でも誘惑が満ちあふれるこの現代社会において、前頭前野をフルに使って生きなくてはならない私たちは、どうやったら先延ばしをしないでいられるの?
その答えも本書に示されている。しかしそれを見るまえに、この本の原題である Procratination Equation すなわち「先延ばし方程式」に触れておこう。第2章で登場するこの方程式は、上述した神経生物学的メカニズムを(行動)経済学的な変数を用いて単純な数式に置き換えたものだ。方程式は下記のとおり。
{\huge \mathrm{Motivation} = \frac{\mbox{Expectancy \times Value}}{\mbox{1 + Impulsiveness \times Delay}}} *1

この式は、ある課題へのやる気(Motivation)についての式だ。私たちは、成し遂げられる見込み(Expectancy)と成し遂げたときのご褒美(Value)の高い課題に対して強いやる気を抱く。けれど、やる気を左右するのはこの二つの変数だけではない。時間という変数がある。課題をやり終えるまでの時間や、やり終えてからご褒美を得られるまでの時間(Delay)が長ければ、それだけやる気は割り引かれてしまう。また、衝動性(Impulsiveness)が強い人はご褒美を手に入れることができるまでの時間差に敏感に反応してしまう……つまり、時間差によってより大きくやる気を割り引いてしまう。
たとえば、ある課題に対して同じだけの価値(Value)を見積もっていて、その課題をやり遂げる自信(Expectancy)も同じだけ持っている二人がいるとしよう(もちろん、締め切りまでの時間も同じ)。でも、片方の人の衝動性(Impulsiveness)がもう一人より二倍強かったら、衝動的なその人のやる気はもう一人の半分でしかない。
課題へのやる気がある閾値(たとえば、目先の誘惑へのモチベーション)以上になると、人は課題に取り組みはじめると考えられる。そして、価値の見積もりや成功する見込みが変わらなくても、課題の締め切りが近づきさえすれば(方程式の Delay が小さくなれば)、課題へのやる気は高まる。上の例の二人が取り組みはじめる閾値を同じくするなら、さほど衝動的でない方の人が課題に取り組みはじめたとき、衝動性の強い方の人はまだ誘惑に屈したままということになる。

さて、この方程式を眺めてわかるのは、やる気が上がらなくて課題に取り組むことをぐずぐずと先延ばしをするというとき、次の3つの理由が考えられるということだ。

  • 課題をやり遂げる自信がない(Expectancyが低い)
  • 課題に価値を感じられない(Valueが低い)
  • 衝動性が強くて目先の誘惑をより高く評価しがち(Impulsivenessが高い)

第2章の冒頭に、あなたがどの理由で先延ばしをしがちなのかを診断してくれる簡易的なテストが掲載されている。ちなみに私は課題に価値を感じにくく、かつ衝動性が強いために先延ばしをしてしまうタイプでした。
そして本書の第7、8、9章で、やる気を高めて先延ばしを克服するためのアドバイスが理由別に与えられる。第7章は目標を達成する自信がない人のためのアドバイス。第8章では、課題に価値を感じられない人が課題それ自体を有意義に感じられるようになる工夫が紹介されている。第9章のテーマは、先延ばし人間が衝動を管理するためのテクニックだ。

ここでは、第9章に書かれている先延ばし対策をいくつか抜き出してみよう。衝動を管理する方法は大きく分けて次の3つ。

  • プレコミットメント(欲求は小さいうちにあらかじめ満たしておく。さらに、誘惑に屈した場合の自分への罰をまえもって用意する)
  • 注意のコントロール(誘惑の感じ方を変える。そして、周囲を整理整頓し、気を散らす刺激の代わりに、望ましい行動を生じさせるきっかけを用意した環境をつくる)
  • 最終的なゴールを具体的なサブゴールに細分化する、ゴールを目指す行動を習慣化する

気を散らさないような環境をつくる方法として、具体的にはメーラーのメール着信通知を切ってしまうことが奨められている。逆に、望ましい行動のきっかけ(心理学用語で「キュー」)を用意するというのは例えば、公共料金の支払いを先延ばししがちなら、目につきやすいところに請求書を貼っておくことだ。
そして、そこでは絶対に仕事しかしないという場所を決めるのも、その場所自体を仕事に集中するキューにすることだ。気分転換や休憩は必ずその場所から離れて行わなくてはならない。また、仕事用のコンピュータと息抜き・娯楽用のコンピュータをそれぞれ1台ずつ用意し、それぞれのマシンをそれぞれの行動のキューにするのも良い。
また、「行動の習慣化」にも場所の指定が重要だ。習慣はいちいち考えたり意志の力を使ったりせずに行動するようになることだが、習慣を身につけるためには、行動する場所と時間を決めてしまうのが有効なのだ。さらに、行動する時間と場所を決めたこと(「毎週土曜日の朝食後、ガレージの掃除をするぞ」)を言葉にすると、実際に行動する確率が高まるのだという。

この本では、上で挙げた他にも数多くの先延ばし対策が提案されている。先延ばし人間は往々にして、先延ばし対策を実践してみること自体を先延ばしにしがちなわけだが、そういったメタ先延ばしへの対策も考えられている(先延ばしをもって先延ばしを制す!:pp.208-11およびpp.246-7)。それに、第5、6章で記述される「先延ばしによる個人的・社会的損失」は読んでいておもしろい。既存の先延ばし研究へのリファレンスである注釈も豊富だ。読み込む価値のある本だと思う。

アイ・マイ・メッセージ

コーチングやアサーティブネスなどのコミュニケーション技法の分野に、アイ・メッセージ(I-message)というテクニックがあります。アイ・メッセージとは、「私は〜」というふうに「私」を主語にした感情や希望の表明のことです。
アイ・メッセージは他人を防衛的にすることなく聞く耳をもってもらいやすい、というような説明がされているのですが、アイ・メッセージの効用はもっと基本的なところにあるのではないかと僕は感じています。つまり、アイ・メッセージは自分自身の感情に焦点を合わせた発言なので、それを言っただけでも(問題が解決するまえでも)気持ちが晴れやすい、スッキリしやすい、という効用があるのではないかと思うんですね。
アイ・メッセージは、他人に行動の改善を要求したいときや、問題解決のための議論をするときなどに使うことが奨められています。たとえば、あなたの部下か同僚があなたの会議に遅刻してきたとしましょう。そのとき遅刻してきた当人に対して次のように言って、行動の改善を要求するのがアイ・メッセージです:「会議の出席者が遅刻すると、全員揃うまで会議を始められないために私は腹が立つんだ。私は出席者に遅刻をしないようにしてもらいたいんだ」「私は君が遅れてくるあいだずっと不安だった。君に今日の会議の時間を伝え忘れていたかもしれないと考えたからだ。私は君にできれば遅刻をしないようにしてほしいし、遅刻する場合でも、会議の時間のまえに、あとどれくらいで到着するかを私に連絡してくれないか。そうすれば、私は無駄な不安を抱かずに済むからね」
アイ・メッセージはユー・メッセージと対比されます。ユー・メッセージは「君は」「おまえは」を主語にした発言です。たとえば「君は今日遅刻してきたな。(君は)最悪だよ。君はだらしない人間なんだな」というような言い方ですね。
ユー・メッセージは相手の人格や内面に焦点を当てます。「君は今日遅刻してきたな。(君は)最悪だよ。君はだらしない人間なんだな」というユー・メッセージでは、後ろ二つの文によって話し手の感情が表明されているようにも見えます。しかし話し手にとって、相手が最悪でだらしないやつであるということが本当に言いたかったことなんでしょうか。
多くの場合、そうではない、と思います。ここで話し手が相手の遅刻を責めているのは、相手の遅刻によって、定時に会議が始められないなどの迷惑を被ったとか、もしくは自分が相手へ約束の時間をちゃんと伝えたかどうか不安になったとか、そういう悪い影響があったからのはずです。そして、正にその悪影響の中身や、悪影響に対する自分の感想こそがここで本当に言いたかったことなのではないでしょうか。また、相手がだらしないやつかどうかの判断より、相手のふるまいによって自分に生じた悪影響のほうが自分にとって確かなものだとは言えないでしょうか。
本当に言いたいことを言わないのであれば、実際に言ったことがどんなにあけすけであからさまな暴言だったとしても、けっきょく、言いたいことを我慢していることになります。攻撃的で強い言葉は、それが本当に言いたいことではなかった場合でも、それこそが自分の本音なのだと自分に勘違いさせてしまいがちです。本当に言いたいことを言うためにこそ、攻撃的な言葉は使わないほうがよいという判断がありえます。
また、人間は確信のないことを口にするときには不安になります。たとえば、相手がどういう人間であるかというのは、けっきょくのところ、どこまで確かめたところで確信の持てないことがらです。実際、遅刻をしたから相手が最悪の人間なのだと、どれくらい本気でそう思えますか? その判断は絶対に疑えませんか? 思ってもいないことや確信の持てないことをくちばしるのは慎んだほうがいいのです。慎んだほうがいいというのは、単純に、精神衛生上にいいということです。
さて、アイ・メッセージは次のような構成になります。

  1. 改善してほしい相手のふるまい
  2. それによって生じた話し手への影響
  3. それに対する話し手の感想・評価
  4. 問題のふるまいの代わりにしてほしい行動

相手のふるまいやそれによって引き起こされた影響については、話し手の主観をまじえず、聞き手にも受け入れられるような形で客観的に述べることが重要です。問題となっているふるまいが何なのかについて、話し手と聞き手の間に共通の認識が得られていなければ、聞き手は自らのふるまいを省みることができないからです。生産的な話し合いをするためには、まず事実をベースにした議論の立脚点を作ることが必要です。
とはいえ、事実の確認をすればそれでいいというわけではありません。相手の行動を変えるには、話し手自身の評価を述べ、話し手から改善案を提出することが必要です。それに話し手の気持ちを正直に表明することは、話し手の気分にとって重要です。
会議の遅刻の例を離れて、次のような例で考えてみましょう。仕事から帰宅した女性を、家の居間でマンガを読んでいる小学生の息子が待っています。彼女はこれから夕食を作らなくてはいけませんが、シンクには洗いものが溜まっているので料理のまえにまずそれを片付けなくてはいけません。また、ベランダには洗濯物が干しっぱなしです。疲れ果てている彼女は、息子に対して次のように言うとします:「宿題もしないで、洗濯物も取り込んでくれもしないで、ずっとくだらないマンガを読んでるのね。それならそれでいいですけど、でも大人になってもずっとそうやって生きていけると思ってるの?」
典型的なユー・メッセージですが、宿題もせず洗濯物も取り込まずマンガを読んでいる、という点については事実で、その点について息子から反論はできません。また、いまマンガを読んでいることが問題のふるまいなのだということについては、この言い方でも息子は理解するはずです。それでもこの発言によって、母親の望むとおりに息子のふるまいが改善されるとは思えません。何を改善すべきかが伝わったとしても、どう改善するのかについては示されていないからです。しかしそれより重要なことは、この発言によって彼女の気分が少しでも良くなるかといえばそんなことはなく、むしろよけいに気分を沈ませるはずだということなのです。
相手に反論を許さない事実だけを並べて、最後に皮肉めいたパンチラインを付け加えるという話法を、僕たちは採用しがちです。ものごとを良いほうに導くことはないにせよ、そういう言い方をすることがせめて心の慰みになると考えるからです。でも結果は逆です。その手の発言は、気を晴らすどころかむしろ滅入らせます。
それはなぜでしょうか。まず、こういうときの皮肉は的を外しがちだということです。相手から一本をとることができないばかりではなく、自分の言いたいことを言うことにもなっていません。上記の例で、マンガばかり読んでいる息子の将来について本当に彼女はなにか言いたかったのでしょうか。違うはずです。このときの彼女が不満を抱いているのは、疲れ果てた状態で家事に取り組まなければならない自分と、手伝うそぶりも見せないいまの息子に対してのはずです。そして彼女が息子へ本当に言いたいこととは、少しでも自分を手伝ってほしいということなのではないでしょうか。上でも述べたように、本当に言いたいことを言わないのなら、ほかにどんなことを言ったとしても、それは言いたいことを我慢している状態なのです。
また「相手に反論を許さない事実」を並べているつもりでも、その事実が主観に汚れている場合も多いです。上記の例でいえば、「くだらないマンガ」という部分が母親の主観に汚れているといえます。息子としてはここには反論したいところではないでしょうか。そしてもし反論したとすると、母親の怒りをよりかき立てることになります。でもそもそも、そのマンガがくだらないかどうかなんてこのときどれほど問題なんですか? そのマンガは彼女自身が息子に買い与えたものだったり、少なくとも彼女が息子に買うことを許可したようなマンガだったりするかもしれません。あるいは、時には(余裕のある休日などには)彼女も息子から借りて読むようなマンガだったりするかもしれません。もしそうだとすると、母親は単に主観に汚れた事実を述べただけではなく、本気で抱いてもいない主観によって事実を汚していることになります。上で触れたように、思ってもいないことや確信の持てないことをくちばしるのは精神衛生上よくありません。
この例において、母親が息子に望む行動が洗濯物を取り込むことだとするならば、アイ・メッセージは次のようになると思います:「わたしは、あなたがずっとマンガを読んでいるのを見ると腹が立ってしまうの。わたしは仕事から帰ってきてからも家事をしなきゃいけないから。わたしはできればあなたに手伝ってほしいと思ってるんだけど、洗濯物を取り込んでくれる?」
冒頭のアイ・メッセージの例もそうですが、ちょっと堅苦しいですね。これが絶対の正解だとはとても思いません。けれど、こういうふうな物言いをしたとき、彼女の気分が不必要に沈むことはないはずです。
長々と書いてきましたが、今回僕が言いたかったことは「本当に言いたいことを言え」「思ってもいないことを言うな」の二点です。そして、自分の本当に言いたいことを捉えるために、また、思ってもいないことを言わないために、アイ・メッセージの考え方は有用なのではないかということです。
他人に行動を改めてもらうというときには、アイ・メッセージだけではなく他にもテクニックが必要です。たとえば、すでに相手がよりよい行動についての知識や技術を持っていて、あとは相手自身にその知識や技術を使うことを決断してもらうだけだ、というとき、下記の本の「態度スキル」の項が参考になると思います(この本では、体を動かすことの技術である「運動スキル」、考え方の「認知スキル」と並んで、「決断すること」が「態度スキル」と呼ばれています)。

いちばんやさしい教える技術

いちばんやさしい教える技術

また、下記の本では行動分析学の理論を用いて、自分や他人の行動を改善する方法が解説されています。
パフォーマンス・マネジメント―問題解決のための行動分析学

パフォーマンス・マネジメント―問題解決のための行動分析学

以上の本についても後日記事を書くかもしれません。ともあれ、繰り返しになりますが、今回僕が考えたかったのは、問題解決の方法としてというより、他人との対話において気分よくいるための技術としてのアイ・メッセージについてなのでした。

あるてぃめっと・すぱいどめん

日本のディズニーXD のサイトで『アルティメット・スパイダーマン』の第3話がまるまる公開されているので観てみた。これ面白いね。
アルティメット・スパイダーマン』は、スパイダーマンになって一年めで高校生のピーター・パーカーが、S.H.I.E.L.D. のニック・フューリーの命令で、他のティーンエイジャーヒーローたちとチームを組むという話だ。コミックや映画のスパイダーマンについてあまり知らなくても、なんなくあるいはなんとなく楽しめると思う。
軽口を叩きまくるピーター/スパイダーマンがかわいいし、他にも「(大丈夫かどうかは)俺たちが個人の集団か、チームかによるな」(アイアンフィスト)とか、ところどころセリフが良いと思う。ピーターたちの通う高校の校長になったエージェント・コールソン(オリジナル音声だと「マーベル・シネマティック・ユニバース」と同じクラーク・グレッグが声を当てている)が、学校運営に困窮するあまり「フューリー長官、大至急法律関係のプロを集めてください。どの程度本ものの肉が入っていれば、ミートローフと呼べるか知りたいんです。予算を切り詰めないと」と言い出すところなども面白い。

きんどるでえーごのほん

10月末に日本版 kindle のサービスが開始されて以来、Androidkindle アプリで kindle 本を楽しんでいる。日本語の小説は三冊くらい買って読んだが、それよりも英語の本をよくダウンロードしている。そして、よくダウンロードしているのだが、読み通した本はまだない。わはは。
英語の本はその日本語訳よりずっと安いし、 kindle 本になると紙のバージョンよりさらに安くなっている場合が多いので、つい購買意欲をかき立てられてしまうのだったが、もともと大して英語が読めるわけではないのに英語の本を買っても読めるようになるわけではない。
kindle でどんな本を買っているかというと、以下のような本だ。こうしてリストアップすることで、自分の読書の意欲が高まってくれることを狙っている。
そしていま気づいたが、はてダの編集画面の商品検索から kindle 本は検索できないんですね。もうだめだなはてダ。はてブロだと検索できるのかな。

永井均訳『コウモリであるとはどのようなことか』で有名なネーゲル生の哲学入門書。日本語訳『哲学ってどんなこと?―とっても短い哲学入門』は読み通しました。日本語版はちょっと訳が固いので、原語だとどんな書き方なのか気になってダウンロードしてみただけなので英語で読み通す気はもともとあまりなかったりする。
『コウモリ』の原著『Mortal Questions (Canto Classics)』を読もうかと思っているんだけど、この kindle 本はフォントが変というか、すごく読み辛いので困っている。
All You Need Is Kill (English Edition)

All You Need Is Kill (English Edition)

ダグ・リーマン監督による映画版の製作も順調らしい『All You Need Is Kill (スーパーダッシュ文庫)』の英訳版。原著を読み終えたのがちょうど日本 kindle ローンチ前後で、試しに検索してみたらやたらと安かったので思わずダウンロードしてしまった。映画公開までには読み通したいです。
The Game (English Edition)

The Game (English Edition)

ピックアップ・アーティスト(PUA)、つまりはナンパ師の本。バーやクラブで女性をひっかけるノウハウを説明した本ではあるんだけど、それと同時に、モテない主人公がいろいろなPUAと出会い、教えを授けられて成長していくというビルドゥングスロマンみたいな本でもあるし、アメリカのPUAたちの共同体(seduction community)をフィールドワークしたノンフィクションという感じの本でもある。と思う。まだ読み通してないからわかんない。
日本語訳はあるので、もうそっちを買って読んでしまうかもしれない。
Learned Optimism: How to Change Your Mind and Your Life (English Edition)

Learned Optimism: How to Change Your Mind and Your Life (English Edition)

ポジティブ心理学の父であるセリグマン先生の主著。日本語訳は『オプティミストはなぜ成功するか (講談社文庫)』で、邦題は若干ミスリーディングというか怪しさ満点なんですが、というか「ポジティブ心理学」という学問の名前で引かれている気もしますが、しかしこれは名著です。
日本語訳は読み終えた。というか、最初は原著の kindle 本を読みはじめたのだが、第三章に楽観度を測定するテストがあって、英語で読んでいるとこのテストにうまく答えられないので日本語訳を買った。楽観度テストというのは、一つの文によってある状況が提示され、自分がその状況の原因を説明するとして適切だと感じる文を二つの選択肢から選ぶ、というものなんだけど、もうぜんぜんわかんないんだよね。たとえば、

(状況)
You fall down a great deal while skiing.
(選択肢)

  1. Skiing is difficult.
  2. The trails were icy.

という設問がある。状況はわかる("a great deal" という言い方を知らなかったが意味は伝わる)としよう、選択肢の一つめもいいでしょう、二つめの選択肢がわからないわけですよ。 trails って跡? が icy ? icy って冷たいってこと? と考え始めるともうだめです。icy は(氷のように冷たいって意味もありますが)氷で覆われてるってことで、だから滑りやすいという含意があり、trail は英英辞書には " (also ski trail )a downhill ski run or cross-country ski route." って載っていて、 英和辞書でも「道」の意味は載っているんだから少し考えれば納得がいくんですが、一見してぴんと来ない文なので、しかも他に理解する手がかりとなる文はないので、完全に脳がスタックしちゃう。
日本語訳だとこの設問は次のようになっている。

スキーで何度も転ぶ。

  1. スキーは難しい。
  2. スロープが凍っていたからだ。

なんてわかりやすいんだ、と思いますね。
そして英語版と日本語版と両方の言葉で楽観度テストを受けてみて、採点したらたしかに点数が違ってしまっている。違ってしまってはいるんだけど、どちらの点数も、私がきわめて悲観的であることを示しているのでした。わはは。「ああ、自分はテストの問題を理解できてない、日本語で読み直してちゃんと理解しなければ……」と考えてしまうところがすでに悲観的な性格があらわれているよな。
ところで、『オプティミスト』は Amazon.jp や楽天市場では新品を扱っていないし、リアル書店でもあまり置いていないようなんだけど、増刷はしないんだろうか。私の手持ちの講談社文庫版の奥付を見ると、1994年に第1刷、2010年に第14刷で、つまり一年に一回は増刷がかかっている本なので、また刷っても売れないことはないと思うのだが。あ、今思いついたけど、改訂された原著をもとに新訳が出る予定があるのかもしれない(講談社文庫の日本語訳は1990年の初版を基にしていて、 kindle 本は2006年版)。
日本語版で読み終わってしまったものの、第6章から第11章の事例説明は kindle 本の方が新しいと思うので、 kindle 本も読み通したいと思っている。

『何歳まで生きますか?』

何歳まで生きますか?

何歳まで生きますか?

1974年生まれの著者が、彼と「世代が近く」「同時代の大きな一角を代表している」と感じた人びとに死生観を訊ねてまわったインタビュー集。インタビュイーは11人で、そのうち5人のインタビューを初出のウェブサイトで読むことができる。また、著者はインタビューの裏話などを音声ブログで公開している
インタビュイーの内訳はミュージシャン3人、文筆業3人、漫画家2人、映画監督1人、ニート1人、写真家1人で、企業人・組織人みたいなひとはいない。
読んでいるとなんだか気分が高揚してくる本だ。もちろん、死や人生に対してなにかはしゃいだことが語られているわけではない。語られている内容は暗いとも明るいとも言いようがない。ただ、重要なのは発言の内容よりスタイルなのだろう。ポジティブ心理学の研究では人の楽観主義・悲観主義の傾向を測定するにあたって、CAVE(説明スタイルの逐語的内容分析)という手法を使うらしいのだが(『オプティミストはなぜ成功するか』)、その手法でこの本のインタビューを分析すると、とても楽観主義的な結果が出るのではないか(あるいはぜんぜん測定できないか)。
こういう本を読むと、自分ならどんなインタビュイーを揃えるかということを考える。どんな人に「あなたは何歳まで生きますか」と訊ねたいか。私が考えたのは、山形浩生穂村弘塚本晋也白倉伸一郎押井守永井均、とかかなあ。この本のインタビュイーたちにくらべると、世代が少し上なので評価やイメージや地位が固まりすぎていて面白みがないメンツですね*1穂村弘なら(この本での久保ミツロウのように)「不老不死になりたい」と答えてくれそう、とか予想が付いちゃうしなあ。なかなか難しい。

*1:そしてもちろん、あんまりエラい人だとインタビューを受けてくれなそうです。

『心と他者』

心と他者 (中公文庫)

心と他者 (中公文庫)

野矢茂樹が1995年に出した本の文庫化。中心的な議論は、「心」をなにか「内側にあるもの」として、「外側」にある身体の行動に「感情」「意味」などを賦与するものとして捉える考え方( この本の言い方だと内界モデル、もっと普通な言い方だとようするに心身二元論)と、独我論とを批判すること。とくに第三章までは野矢の師匠である大森荘藏の哲学への批判が主な話題となっている。
1995年の原著に対する永井均の書評が、『科学哲学』vol.28 に掲載されている。
文庫化にあたって、大森が原著に書き遺したコメントが文庫版の注釈として収録されている(そして大森は1997年に亡くなっている)。このコメントというのは、多くは野矢の議論に対する批判であり、さらに、野矢による大森の書き込みへの応答も注釈になっている。つまり、読者は日本を代表する哲学師弟の問答を垣間見ることができるというわけだ。
これはすごい。
どうすごいかについては田島正樹による文庫版解説(がブログで公開されている)で説明されている
注釈がどういう具合になっているかというと、たとえばこういう文章と注釈がある。

(…)では、意志することとは何なのだろうか。実は自分の場合にもよく分からないのである。独断的に私の意見を述べておくならば、いっさいの身体運動や状況と切り離された純粋に心の状態ないしできごととしての意志なるものなどありはしない、と私は考えている◆37。(…)

◆37[大森]これは私の意見
   [野矢]はい。

(106-107ページ)
いかがだろうか。なんだか萌えるものを感じないだろうか。
さらに、次のようなくだりもある。感覚報告の一人称権威(ある人が実際に「痛い」かどうかについては当人の報告がなによりの判定基準になるという特別さ)についての議論の一節だ。野矢は下の引用に先立って、志向的内容があるかないかによって「知覚」と「感覚」とを区別しており、下の引用の「複眼的な眺望」とは「知覚」のことで、「単眼的な眺望」は「感覚」を指している。

(…)眺望が複眼的であるならば、視点状況を変えてよく見てみることもできるだろうが、単眼的な眺望はその眺めですべてなのであり、「もっとよく……」ということは考えられない。それゆえにこそ、感覚報告は、さらなる訂正や確認のゲームをもたず、その報告で打ち止めとされるのである◆84

◆84[大森]否、複数の痛みを集めて「同一の痛み」を定義することをしない。それだけ!
   [野矢]これが、「痛み」に関するわれわれの生活の中での定義の問題だというのは、大森の言うとおりである。それゆえこの書き込みだけに関して言えば、大森が私の何を否定したのかよく分からない。ただし、大森が感覚と知覚を区別しようとする私の議論全体に反対していることは確かであり、私としては、もっと議論を尽くして大森を説得したい思いでいる。

(185-187ページ)
ここでじんわりくるのは、既に亡くなった大森に対して「説得したい思いでいる」と現在形で応答する野矢のふるまいだ。野矢にとって、師匠・論敵としての大森という「他者」はまだ生きているのだと感じられる。
というわけで、哲学師弟の問答に萌え萌えしたい人は読むべし。