『JORGE JOESTAR』

JORGE JOESTAR

JORGE JOESTAR

『恥知らずのパープルヘイズ』『OVER HEAVEN』につづく、「vsジョジョ」競作のアンカー。西尾維新『OVER』を読んだとき、『ジョジョ』1部から3部までの裏設定を構築しようとする深読みを書いているにとどまり、その読みの面白さ自体はさておいて、本来ならそこからさらに「小説」が書かれなきゃならないんじゃあないか、などという感想を抱いたが、『JORGE JOESTAR』にもまたそういう部分がある。ただ『JORGE』には《ジョージ・ジョースター》がふたり登場するという仕掛けがあって、それが単なる裏設定の羅列になることから救っているように思う。また、あのジョナサンを父に持ちあのジョセフを息子に持つジョージ(回りくどいな)の方の物語では、「吸血鬼や波紋戦士」と「名探偵」がいる世界の〈もう一つの歴史小説〉みたいな味わいになっている部分もあり、といっても舞城なんだからキャラクターのセリフや内語はまったく現代日本口語なのだが、それでも舞城の新機軸として楽しかった(二十世紀初頭のイングランドなんていう現代日本から離れた舞台設定は、『ジョジョ』のノベライズという機会でもなければ舞城は手を付けなかったと思う)。
そして、《ビヨンド》《ウゥンド》《バウンド》などと、『ジョジョ』でおなじみの《スタンド》設定を越え出る超能力概念が次々登場するところは、舞城のJDCトリビュート作品である『九十九十九』で、清涼院流水の書く小説が《流水大説》から(《述べる主》などの過程を経て)《意味わからせてやらねー世》になっていくというくだりを思い出した。ここには、舞城独特の批評精神/ジョークの冴えを感じる。しかし、『九十九十九』の《意味わからせてやらねー世》がセリフで触れられるだけの、本当にちょっとしたジョークなのに対して、『ジョージ』の「超能力概念のインフレ」にはその概念内部での具体的な超能力やそれを使うキャラクターの設定があり、物語の展開にも絡む。この違いはなんだろうか。「リアルモーニングコーヒー」という映像作品のためのアイディア出しマラソンみたいな企画をやっていたところから見ても、舞城には「設定魔」なところがあって、それがこういう機会に迸り出るのだろう。僕は舞城のそういうところが好きだ。
さらに、「超能力バトルもの」として面白かったのは、中盤に、荒木飛呂彦の好きそうなたぐいの、しかし『ジョジョ』が十何部まで続いたとしてもちょっとありえなさそうな、「閉鎖空間での戦闘」があったことだ。ここだけではなく、もう一人の《ジョージ》の直面するシチュエーションはすべて「絵にするのが無理そう」なものばかりで、こういったところはノベライズならではだろう。上遠野浩平の『恥知らず』が『ジョジョ』3部から5部前半までの「スタンドバトル」の折目正しいアップデート版だとすると、舞城は6部以降の荒木のイマジネーションをさらに暴走させることで荒木に対抗しようとしている。
そういった企てはよいし、キャラクターたちの(改変を含めた)描き方も嫌ではないのだが、しかし物語の展開には納得できないところがあった。というかそれはもう序盤からひっかかる。たとえば、二枚の世界地図の重ねあわせるのは、あれは経度はどうなっているのかなどと思う。さらに、空気があるところで無限に加速されてもと思う。そして、最終的に、物語の辻褄があっているのかどうかもよくわからないし確かめる気にもならない。もう、へたれなジョージと、うる星のラムちゃんみたいなリサリサとがイチャイチャしているだけでよかったのに……と思う。もうひとりの《ジョージ》とかいらねえよ。なんだ《ビヨンド》って。ばかじゃねえの。
ともあれ、ところどころひっかかりながらも怒濤の展開にはページをめくる手は加速させられる一方だったし、ジョージとリサリサのイチャイチャだけではなくて別のジョジョカップルのイチャイチャも読めたのはよかった。文字を読むスピードが遅くて読解力も低い、そのため(暇人だし、時間コストは安いものの)ほんらい小説から効用*1を得るのに向いていない僕にとって、この『JORGE JOESTER』は数少ない「読んでよかった」小説のひとつだと言える。

*1:小説の効用分析については『たかがバロウズ本。』8章2節3項を参照のこと。