再び、機構と陰謀(Re-mechanism and Re-machination)

いまさらなのですが。『ベティ・ザ・キッド』をぱらぱらめくっていたら、登場する街の名前が歴代アメリカ合衆国大統領の名前から採られていることに気づきました。(参考:wikipedia:歴代アメリカ合衆国大統領の一覧
『ベティ』劇中の地名は以下の通り。チェックがいい加減なので漏れがあるかもしれません。

ほとんどそのままなので(「ガマリエル」がミドルネームなのでわかりにくいぐらい)、こういうのは初読時に気付いてふーんぐらいに思っておくべきだったのでしょうか。薄識で申し訳ない。申し訳ないついでに言うと、『ベティ』の舞台となる「大陸」を北南で二分する国家、ペオポルスとクリダ(ケンクリッド)の元ネタがよくわかりません。ペオポルスはピープルズ(people's)の表記に忠実な発音なのかな、と思っているのですが……。
とりあえず、「ベティ・ザ・キッド幕末篇」としてベティ一行が黄金の国ジパング(だかなんだか)へ行くことがあれば、きっと物語の舞台となるのは若狭国小浜なんでしょうね。
↑これが書きたかっただけなのです。申し訳ない。

次もいまさらの話です。『ベティ』最終話には、ぼくが勝手に「神的ページまたぎ」と呼んでいる箇所がありまして、それは『ベティ』下巻389ページから390ページ、ウィリアム-ベティ師弟が今生の別れを覚悟するくだりです。

「いいか。最後の授業だ。君は強い。場数も踏んできた。気づいていないようだから言っておく。破れかぶれの決闘なんかに頼らなくても、君はもう十分にやれる」
「でも、わたしは一回もうまくなんて……」
「俺の褒め方が下手だっただけさ。信じろ」
力を込めて繰り返す。
「忘れるな。決闘はするな。ガンマンの最初の心得、覚えているな?」
「隙を見つけて……迷わず殺せ」
「そうだ」
歓喜を込めて囁く。
最高の生徒に最高の誇りを以て祝福するために。


それが真っ赤な嘘であってもだ。
抱き寄せてから手をはなした。視線だけは外さず、終わりの言葉をかけた。
「俺が君にしてやれる最後のことだ。余計な連中は俺が引き付ける。ここから君を追っていく敵はひとりもいない。信じて、決して焦るな」
「ウィリアム」
ベティはつぶやく。
「わたしもあなたに言いたいことが――」
が、かぶりを振ってウィリアムは背を向けた。
それは今、聞いてはならない。

***sigh***
英語でため息を吐いてみました。このシーンが好きすぎて必要以上に引用してしまっていますが、とりあえず、重要なのは区切り線(hr要素)の前後です。区切り線でページが変わります。これは、縦書きの本で奇数ページ(ある見開きの左ページ)から偶数ページ(次の見開きの右ページ)への移動なのです。つまり、「最高の生徒」のセンテンスを読んでいる最中は次の行がまったく目に入らない。「最高の生徒」と盛り上げて持ち上げたあと、ページをめくるとすぐそれが嘘であることが明かされる、その落差によって読み手の緊迫感が高まるという、漫画でいうところの「めくり」演出が成立しているのです。
小説の文章を見開き単位でレイアウトするなんて普通の作家はやらないわけで、これは作者である秋田禎信も意図せざる、偶然によって生まれてしまった「神」演出だと思っていたのですが、実は『ベティ』には少なくとももう一つ、偶然にしては出来すぎている「ページまたぎ」があります。それは『ベティ』上巻の巻末に収められた番外編で見られます。上巻311ページから312ページ、街の有力者バッグガーの屋敷の前で、バッグガーを憎むキムと屋敷の使用人(元ごろつき)、そしてベティの三人が軽く言い争ったあとの一節です。来訪者たちにうんざりした使用人が声を荒らげます。

「ふたりとも、いつまでもうるせえようならブチのめすぞ! 失せろ!」
ベティはかぶりを振ると枝から飛び降り、坂を下り始めた。ゆっくりした足取りで、“ま、やってみな”と背中で語りながら。


内心では勘弁してと念じていた。奴が本当にキレたら、古傷のハンデを差し引いても勝てる気はしない。十歳の頃とは違う。

やはり区切り線で奇数ページから偶数ページへのページまたぎです。上で述べた「神的ページまたぎ」と比べると場面自体の重要さ、緊張度は低いですが、少女がハッタリで渡世する様がわかりやすくあらわされているページまたぎになっていると思います。
この二つのページまたぎには二つの共通点があります。それぞれ、ベティというキャラクターの特徴、凄腕のガンマンを装ってはいるが実際は銃を握って一年足らずの少女であるという事実に触れているくだりであること。そして、最終話は雑誌掲載時から多少手を加えられた原稿であり、番外編は『ベティ』の連載が文庫本にまとまる際の書き下ろしである……つまりどちらも本になる間際まで作者のコントロール下にあったと思しいということです。一つ目の点はともかく、二つ目の点を考慮に入れると、この二つの「ページまたぎ」が意図的なものであるという蓋然性がわずかに上がりはしないでしょうか。
いややはり、作家の作為と考えるのは現実的ではないでしょう。むしろ無作為に書かれた「にもかかわらず」劇的なページまたぎが発生した、と考えた方が格好いいかもしれません。10年以上文庫レーベルでの作家業を続けると、意図せずともそのような技が閃いてしまう、というような。

(……)隠れ場所を出てすぐにハンターはハンナの姿を見つけた。斜めに突き刺さった土管の縁に腰を下ろしたハンナの後ろ姿へと近づいていく。と、足音を立ててもいないのにハンナが振り向いた。
見えていたはずはない。実際、ハンナは気のせいかと思ったのかまた前を向いた。ハンターは静かにつぶやいた。
「俺だ」
「ハンター?」
再びこちらを向く彼女に、ハンターは話を続けた。
「今、俺はハンナが気づくはずがないと思っていた。なのにハンナは気づいたな。ハンナが俺を倒すつもりだったら俺は倒されていた。達人というのはきっと、そうしたものなのだろう」
「あたし、達人なの?」
ハンナはくすくすと笑ったが、ハンターは大真面目にうなずいた。
「そうなれる可能性が在るのだろう」
「なら、なってみたいな。なれたら格好いいよね」
「ああ」

(『ハンターダーク』458、459ページ)

三たびいまさらですが、ディズニーチャンネルの『ファイアボール』をDVDで観ました。ドロッセルお嬢様かわいいですね。
第10話「終着駅」で、ステルスユニットにより目視できない仕様のメイド(多数)、というネタがあったのが印象的でした。『ハンターダーク』の結社Kも、予算が減らされたら、ミラージュ・システム7965体のうち4274体ぐらいを解雇したりするんでしょう。
『ハンターダーク』にメディア展開があるとして、企画の出自から考えれば、『ファイアボール』やピクサーの『ウォーリー』(ゴミだらけの世界や、すべてをロボット任せで退化(?)した人類などが出てきますな)のような3DCGアニメになるのがもっとも望ましいのでしょうが、思い切ってアクション要素を抜き、闇の一党たちによるシチュエーション・コメディという方向へ舵を切るのなら、ドラマCD・ラジオドラマみたいなのでも良いな、とちょっと思いました。
……あ、会話劇だと参加できないメンバーがいたか。

いまさらじゃない話題も一つぐらい書きましょう。今ハリウッドでは「白雪姫」を原作にした映画の企画が3本ぐらい進行中で、そのうちの一つがユニバーサル・ピクチャーズの Snow White and the Huntsman です。悪いお妃が最初に白雪姫を殺そうとする際、その実行を命じられた従犯がハンツマン(お城の猟師)で、オリジナル版の猟師は姫を殺せずに森へ逃がす、というぐらいの役回りですが、2012年公開予定のこの映画では、猟師は白雪姫に森で生き残るための技を教える指導者として大きく取り扱われるようです。もちろん王子様は王子様として登場するので、猟師と姫との関係は恋愛ぬきで、疑似父娘的に描かれるのだと思われます(参考:「パイレーツ4」の新進俳優、実写版「白雪姫」の王子役に決定 : 映画ニュース)。
猟師を演じる役者えらびは難航しているようで、これまでにオファーがあったとされる俳優は5人います。現在の最有力候補は『マイティ・ソー』(7月公開)で雷神ソーを演じたクリス・ヘムズワースなのだそうですが、最初名前が上がっていたヴィゴ・モーテンセンと比べると、はるかに若く、二回り以上歳の差があります。逆にいえば、猟師と白雪姫(演じるのは21歳のクリステン・スチュワート)との(役者間の)年齢差は近づいてしまっているということです。
猟師と白雪姫の二人の歳が釣り合ってしまうことで、つまり彼らが並んだ絵面に男女関係の雰囲気が出てしまうことによって、予定されていたプロットも変更されるのでないかと、巷間では予想されています。
しかし、です。若い男女がそろえばロマンティックなテンションが高まることは避けられない、それは本当でしょうか。
たとえば猟師が、静殺傷法と辺境生存術だけが取り柄の、椅子と人間の区別もつかないナチュラルボーン・キラーなボクネンジンだったとしたらどうでしょう。若いながらも幾多の修羅場をくぐり抜けた遍歴の殺し名人だとしたらどうでしょう。
いくら白雪姫がお年頃で妙齢な年齢だったとしても、そして彼女の置かれた境遇がいかに過酷なものだったとしても、天命と人情とが無分別な幽霊じみた男に対してロマンティックな感情を抱けるものでしょうか。
……あ、抱けるのかもしれない。