一万回目の旅のはじまり

別冊文藝春秋七月号の秋田禎信インタビューを読んだ。インタビューというか、「誰俺」の紹介に秋田のコメントが二言三言寄せられているというような一ページ記事だ。
秋田にとって、考え続けるということが重要なのだと思った。それは「思考停止しない」と言挙げすることによる思考停止ではなく、自分が納得することが重要なのだという「自分の頭で考えましょう」系でもなく、あるいは彼が正しさへのドライブ感を強く持っているということでもない(ないわけでもないが)。考え詰めた結果が実感からやたらと距離をおいていたなんてことは秋田作品にとってめずらしいことではないし(ここでは彼の書くギャグ─変人たち─より、彼の文体自体を例としたい)、正しさを希求しすぎた末の短絡こそ精霊アマワというラスボスであった。
つまりは考え続ける過程にこそ意味があるということなのだが、ではそれは延々結論を先延ばしにするという無責任なのだろうか? というか、秋田自身にも簡潔な結論や分かりやすい決着(「血塗れで佇む主人公」)、「程度の高い悟り」に惹かれる傾向はあるように思える。だが、そうした憧憬された終わりは「終わりらしさ」として過程に取り込まれる(魔術士オーフェン無謀編で繰り返された「最終回っぽい話シリーズ」……)。また、自らの死を用いてケリをつけようとする類いの超人的行為は否定される。であれば考え続けるというのは秋田の倫理であるらしい。倫理であるからそれはそれ自体に制御されている。責任を果たす程度に区切りは付けられる。
この倫理によると、現在と過去を見通す未来は幽閉されているべきだ。現在が立ち止まらない(立ち止まれない)以上、未来の方から来てもらっても持て余してしまう(エスパーマンたちの激烈なる戦場のインフレは、最終回に至るまで予告に留まるのだ)。だからはぐれ旅は続く。こっちで終わっても向こうで続けているのだから追うまでだ。