龍の中の十五分

  • 秋田禎信「籠の中の15分」について。
  • 「籠の中の15分」の三人称パートは、ト書きというよりもカメラの目線に近くて、あのパートは神=作者視点というより観客=読者視点だ
  • これといった展開もオチもなくシチュエーションと会話のみで書かれたあの作品を、ぎりぎりのところで締まったものにしているのは、シニカルな余韻を残す最後の一文にあることは間違いない
  • ところで、秋田禎信といえば、一般的には、例えば「魔術士オーフェン」では「スペルユーザーが殴り合いで強い(むしろ殴り合いの方が有効な場合が多い)」という設定で既存の「剣と魔法」概念へのカウンターを打ち出すなど、シニカルな作風の持ち主ということになっていることと思う
    • と、一応書くけれど、個人的にこの認識(既存のカウンター云々)はまったくアクチュアルじゃなくて、というのも私にとって「剣と魔法」って結局ドラクエオーフェンなんだよね(最初に触れたから、というより「それにしか触れなかった」から)。でもまあ、オーフェンのヒットはやっぱそういうカウンター的要素を持つことで「時代と寝た」から成されたんでしょ? ちがうの?
  • 秋田の作品のシニカルさが端的に現れるのは、登場人物でいうならば「エンジェル・ハウリング」の人精霊スィリーで、あの「物語に関与しているようなしていないような」感、今思いついた言葉だと「狂言回さず」なキャラクターは、折々で作者たる秋田の本音とも照れ隠しとも捉えることができる
    • 本音にしても照れ隠しにしても、どちらにせよ、スィリーというキャラクターは秋田禎信の「作家性」だというのが大勢の見方だろう
    • 補遺。ここで私は、シニカルさに加えてその後ろ側にある(と私は思っている)「本音とも照れ隠しとも捉えることができる」ものを併せて「秋田禎信の作家性」と置いている。だから、前項までのカウンター的シニカルさと、この後に続く項で使われる「秋田禎信の作家性」とはイコールではない。つまり、この前後で世間的な(?)評価の視点から秋田禎信へ好意的な読者(ファン)的なそれへと、断りもなしに文章の視点が切り替わってしまっているのだね。
  • 今回、「籠の中の15分」で一番シニカルなのは、三人称パートの地の文だ
    • 繰り返しになるが、三人称パートの地の文=観客=読者だ
  • なにが言いたいのかといえば
  • 今まで秋田禎信の作家性だということで後景にありこちらからは触れ難かったものが、今回読者である我々の前に手が届く形で現れたという気がしている、ということなのだけれど
    • 正確にいうと、今回初めて現れたわけではなくて、ずっと以前から(ひょっとしたらはじめから)触れるようになっていたものをこちらが勝手に触れないと思っていただけなのかもしれないと思い始めている
    • もっとかみ砕こう
      • 秋田は読者に、自分の本から読者にとって必要な言葉を見つけてくれることを望んでいて(乞う参照:エンハウ十巻のあとがき、 IN POCKET のインタビュー)
      • しかし秋田の作品に含まれている「言葉」がすべて読者にとって選び取れるものかといえばそうではなく
      • 選び取れないもの、それがすなわち「秋田禎信の作家性」だと私は思っていたのだが
      • 今回突然(じゃないかもしれないのだけれど)、それさえもこっちの手に渡されてしまったという気がしている
  • 関係ないけれど、世間一般の見方とは別に、秋田禎信はずいぶん前からエバーグリーンな「古典」を書こうとしていることを指摘したい
  • エンジェル・ハウリングといえば、本が手元にないから不正確な引用すらできないのだけれど、ミズーとベスポルトの対話で掲示された、「暗闇で、いるかどうかもわからない相手に自分の存在を伝える方法」だとかなんとかいうトピックは、作者-読者間の問題に敷衍することができるんじゃないかと今気付いた
    • で、これ深追いするとやばそうなんだよな
      • だって一番「読者」っぽいのってアイネストじゃん
  • というわけで自爆の予感を感じさせつつ以下次回へ!!1!(続かない)
  • 「次回」というわけではないが、「後景にありこちらからは触れ難かったもの」については新しく記事を書いた