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辻原登『東京大学で世界文学を学ぶ』を読んだ。
まえがきその三(この本にはまえがきが三つあるのだった)で予告された講義スケジュールは次のとおり。
- 我々はみなゴーゴリから、その外套の下からやってきた
- 我々はみな二葉亭四迷から、その『あひゞき』からやってきた
- 舌の先まで出かかった名前
- 私をどこかへ連れてって
- 燃えつきる小説
- 失われたロールネット(柄付眼鏡)を捜して
- 『ユダの福音書』の発見とボルヘス、そしてまたまたチェーホフ
- 『枯葉の中の青い炎』はどのようにして書かれたか
- 物騒なフィクション
- ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』をどう読み、どうパスティーシュするか
で、実際の講義は次の目次のように進められた。
- 我々はみなゴーゴリから、その外套の下からやってきた
- 我々はみな二葉亭四迷から、その『あひゞき』からやってきた
- 舌の先まで出かかった名前――耳に向かって書かれた〈声の物語〉
- 私をどこかへ連れてって――静かに爆発する短篇小説
- 燃えつきる小説――近代の三大長篇小説を読む1 セルバンテス『ドン・キホーテ』
- 燃えつきる小説――近代の三大長篇小説を読む2 フローベール『ボヴァリー夫人』
- 燃えつきる小説――近代の三大長篇小説を読む3 ドストエフスキー『白痴』
- 物騒なフィクション――ラシュディ『悪魔の詩』と冒涜するフィクション
- 自作『枯葉の中の青い炎』は、どのようにして書かれたか
- ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』をどう読み、どうパスティーシュするか
「私をどこかへ連れてって」では、「読んでいるうちに主人公がどこかへ連れて行かれてしまう」短篇(掌篇)小説のアンソロジーが編まれ、それらを読みながら、「どこかへ行ってしまう」ポイント、短篇小説としてのターニングポイントを見つけ出そうという試みが行われる。アンソロジーの中身は次のとおり:ブロッホ「二度消える額縁」ボルヘス「タデオ・イシドロ・クルスの生涯」「エンマ・ツンツ」コルタサル「続いている公園」「山椒魚」小泉八雲「果心居士の話」ユルスナール「老絵師の行方」井伏鱒二「山椒魚」:コルタサルまでが講義中で読まれる。小泉八雲やユルスナールについては各自読むように勧められる。
「燃えつきる小説」というのは、近代小説が紙とインクという乾燥性の、よく燃える素材(メディア)からできていることの比喩であるとともに、作中の主人公たちがその身を燃やしつくすように生き、そして死ぬことを意味している。我々読者は小説の主人公が燃えていく様から生の意味を感得しようとするのだ。
読んでいて興味深かったのは辻原自身が小説を書く過程を明かす第九と第十講義だったかな。
パスティーシュするときに大事なことは、原作、もとにあるものより複雑にしないことです。原作より簡素に、シンプルにすること。なぜなら、パスティーシュの目的は、その作品のエッセンスをつかむことだからです。ですから、複雑にしてしまってはだめです。エッセンスをつかんで、そのエッセンスだけ再話する。だから、僕のパスティーシュは、ヘンリー・ジェイムズ的な暗示風の文章は一切使わない。短くポイントポイントを際立たせるやり方でパスティーシュします。
目からうろこでした。
いや、なんというか、本の感想なんかも、原作と同じくらい複雑に、あるいは原作以上に複雑に書こうとしてしまいがちです……。そうすることで原作とタメを張ろうみたいな……あわよくば部分的にでも超えようみたいな……がっついちゃう感じがありますね……。そうじゃないんだよ……つかまなきゃ……エッセンスを……esse ent(存在し続けるもの) をね……今、エッセンスの語源から言葉遊びでなにかうまいことを書きたくなってますが(思いつきませんが)……その色気がね……だめだよね……。