機構と陰謀(Mechanism and Machination)

塚本晋也による映画版「葉桜と魔笛」は、太宰治の原作掌編を上手く膨らませている。原作との相違点として目につきやすいのは、出征間際に語り手(主人公姉妹の、姉の方)との結婚を申し出る青年のエピソードが加えられていることだろう。しかしこれは語り手の、彼女自身や妹にたいする感情(年ごろの女のひとでなければ、わからない、生地獄)を強調・重層化するものであり、この点自体より、このように描き込まれた姉妹関係が、「あたし、姉さんと一生暮らす、男の方なんて一生いらないわ」という妹の(末期の?)台詞を導くということの方が重要である。原作にはないこの台詞は、すぐあと聞こえてくる「魔笛」(この話を怪談にしている要素)より印象的だ。
一方で、原作から落とされた部分がある。原作は日露戦争中の出来事を「老夫人」(といっても五十五才だから今の感覚だと全然「老」じゃないよな、原作の発表は昭和十四年)となった姉が語っているという体裁になっているのだが、映画版はそうではない。いや、上で私も「語り手」と書いたように、映画版にも所々に昔語りをしているような姉のモノローグが入るのだが、その声は画面の中で「過去の姉」を演じている河井青葉のものであり、時制の枠は曖昧だ。それにともなって、原作では明記されている妹の死も映画版では描かれない(妹が死んだのはいったいいつなのか)。
大きく言えばこの差は小説と映画というメディアの違いに起因するのだろうと思うし、だからこの指摘は単なる重箱の隅つつきかもしれない。だが、映画の末尾となる「神さまは、在る。きっと、いる。私は、それを信じました」というモノローグの後を、わずかではあるが小説の語り手は続けている。彼女の人生が続いたからだ。魔笛を聞いて三日後に妹は死ぬ。妹の死から四年後に別の町で姉は結婚し、二十年後に父も死んだ。そして三十五年後、魔笛のことを語り終えて、姉はこう述べる。

(…)いや、やっぱり神さまのお恵みでございましょう。
私は、そう信じて安心しておりたいのでございますけれども、どうも、年とって来ると、物慾が起り、信仰も薄らいでまいって、いけないと存じます。

映画版の、魔笛が流れる中で抱き合う姉妹の美しさに私は震えたけれど、観てからしばらく経つと、原作のこのくだりこそが重要なように思えてくる。

電車に乗っていて、近くに母子連れがいた。息子の方は仮面ライダーオーズ(タトバコンボ)のソフビ人形をにぎにぎしていて、母親は息子に何やら話しかけている。何を訊ねているのかというと、「幼稚園で、みんなオーズ見てるの? オーズで遊んでる?」とかなんとか。でも少年はオーズを腹から二等分してしまって、腰から上の突起を上半身の中へ入れ戻さなくてはいけないから、母親の話を聞いているんだか聞いていないんだか、質問には答えない。だって、どうでもいいものね。それより、上半身と下半身で二つにわかれたオーズは、指先が上手く動かなくてひとつにならないけど、よく見れば、これはこれで悪くない。新しい必殺技だ。
母親の言葉は、特にあの「お友達はどうだったの」的質問ってやつは、意味も、意図も、どう答えればいいのかもよくわからない。ここにいない「みんな」「お友達」―ってだれだ? タクヤのこと? トモノリ?―のことより、このオーズの勇姿の方が重要だ。「タクヤくんとかさ?」タクヤ、どうだったかな。わすれた。それより、ねえ、新しい必殺技でしょ? って訊いても、それこそ母は聞き流している。「そうやっていつも遊んでるんだ?」今ここの、汗ばんだ手の中の、生暖かいビニール臭を放つオーズを見ようとはしない。

日本語の「買う」には、代金を払って物を手に入れるという意味の他に、「望まないことを招いてしまう」(「恨みを買う」)とか「価値を認める」(「努力を買う」)などの意味がある。「買う」が、(口語の)「かえる」=(文語の)「かふ(変ふ、代ふ、換ふ)」からの派生語、あるいはこれらと語源を同じくする言葉だとすると、「招く」「認める」の意味は時代が下って付け加えられたもののように思われる(それがいつなのかはともかくとして)。「価値を認める」という「買う」は日頃お店で「物を買う」ときにも僕らは行っているはずだが、品物と代金というような、目に見える物と物との交換のときは特に意識されない。この「買う」ではもっぱら形のないものを「買う」ものだし、そもそも売ってないもの、わかりやすく値段がつけられないようなものを「買う」ことが多い。しかもこの「買う」には「望んでいないのに引き受ける」という意味の方も色濃く出ているようである。「そのやる気は買う」というような言い方は、暗に「しかし進んで受け取る気はない(付き合うつもりではない)」とか「金(目に見える代価)は出さない」という意思を含んでいる、と思う。

秋田禎信『ベティ・ザ・キッド』第四話と第五話は、主人公ベティの相棒・旅の連れであるフラニーとウィリアムの負う事情をそれぞれ掘り下げる話になっている。この二人は、片や弾圧される先住民と入植者とのハーフで「見えないものが見える」少女、他方は軍隊上がりの殺し名人、とそれぞれまったく違う背景を持つ。そうしたわけで、第四話と第五話との繋がりも「主人公を主軸から外して仲間の話」というぐらいしかないように思われる。それでも続けて読んでみると、ある共通したシチュエーション、展開、というより端的に同じ書きぶりといってしまえるものを見つけることができる。単純化すると、「できるはずのないことができてしまう」というような文である。
具体的に引いてみよう。第四話、フラニーは彼女を強く憎む純血シヤマニ(『ベティ』の舞台となる大陸の先住民)の戦士・ベワセッチに対して、次のように言う(上巻p264)。「見えてるよ。分かってる。あなたはやる。そうしちゃう――だから言ってるの。なんで? できるはずないのに。だっておかしいよ。(後略)」
また、第五話、この話のクライマックスとなる決闘の場面(下巻p81〜)で、そんな場面にも関わらず地の文や独白でくりかえし「撃たない」「撃てない」と書かれる(下巻p84)。が、果たして決闘は行われる。「撃てない」はずの銃口から弾が出る。
ベワセッチが何を「そうしちゃう」のか、決闘において「撃てない」のは誰なのか、何故なのかについては『ベティ』上下二巻を実際に読んでほしいのだが、ひとつ言えるのは、これらの「できるはずのないこと」というのは、物理的に不可能だとか、当事者の能力的にかなわないだとかいうことではない。いや実は、ベワセッチの思惑はフラニー(とベティ)によってたしかに結局達成されずじまいで終わるのだが、上で引いた台詞においてフラニーは「自分が邪魔をするからお前にはできるはずがない」と言っているのではない。むしろこの時点の彼女はベワセッチに好機を与えた存在であり、だから彼女に「本当は質問などなく」、状況は「言わずとも見える」(上巻p262)のだ。どのような状況か。ベワセッチに行動を促す状況である。であれば、彼が「できた」からといって何かの奇蹟が起こったということはない。むしろ「できるはずない」というフラニーの台詞こそ間違っている。
第五話においても同様だ。ガンマンの決闘で、ガンマンが「撃てない」ことなどありえない。にも関わらず、「撃てない」と書かれた。
できるはずのないことができる。当然できるはずのことが、事前にはできるはずのないこととされる。そのような書き方は、秋田が『ベティ』と同時期に連載していた『機械の仮病』でも見られる。しかし、それを見る前に確認しておこう。できることをできないと書かれたこと、それを、嘘が書かれたと見るならば、あるいはより好意的に「ドラマティックにするために」書かれたと見てしまうならば、おそらくとりのがしてしまうものがある……