ザ・ハード・デイズ・ナイト・アンド・デイ

寝ている間に事が済んでいる映画。それはどういうことか。
観ると歩き方が変わる映画というのがあって、最近だと例えば「ボーン」シリーズが挙げられるだろう。マット・デイモン演じるジェイソン・ボーンの颯爽たるスパイぶりを観た後の我々は、劇場から足を踏み出すその歩幅が広がり、通り過ぎた車のナンバーを覚えようとして、レストランに入れば非常口近くに座るようになる。次の日には治っている。その朝に、寝床の中でボーンに変わっている自分を発見しない限りは。
寝ている間に見る夢は、記憶の整理なのだという。睡眠中の脳は寝る前に得た情報を必要なものと不要なものとに仕分け、必要な記憶を定着しようとする。その働きが夢を見せるのだと。記憶が人格を構成するならば、我々は夢見る間に彫琢されている。
一通りのロマンスとアクションのつまった飛行機を脱出したキャメロン・ディアスが薬によって眠らされるシークエンスで始まり、トム・クルーズが目覚めると夢の叶う「いつか」になっているというラストで締められる構成は、この映画が、映画そのものによって(夢見ることによって)キャメロン・ディアストム・クルーズに「変身」させてしまう映画であることを意味している。因果関係や時系列によって記述可能な成長や変化ではなく、ディアスはつねにしてすでにトムクルであり、であればトムクルもつねにしてすでにディアスであるという、そして映画自体がトムクルでありディアスであるという、その三位一体的な事実を証す「変身」の映画――
ではないのだが。
いやしかし、なんだか変なことが起こっている映画なのではないでしょうか。12人を超えるシナリオライターにリライトされ続けたという脚本の経歴を考えると、上書きされまくった「脚本自体の記憶」のメタフィクション的映像化が「寝てる間のアクション省略」なのではないかとすら考えますが、さすがにそこまで面白いことではないと思います。
完璧かつ無敵な良い子ちゃん(なだけ)というトム・クルーズのキャラクターは新しいかもしれない。わざと敵にちょっかいかけることで王子様を呼び付けようとするキャメロン・ディアスは、どこぞの渦巻金髪小娘を見ているかのようだったが……いや、歳食ってる(失礼!)せいか小娘よりだいぶ慎みが抜け落ちているか。それでもいいというか、その方がいいぞ! そうだそうだ、自白剤でラリってキラキラの目になったディアスに「セックスしたい」って言われるトムクルに俺はなりたい! ディアスになってトムクルの気を引きたい! ああ、なんだか、俺の欲望が結晶してる映画だったなあ……。ジョン・パウエルのスコアが気持ちいいだけかも知れないけど……。
いやあの、普通に愉快な映画なので、どうか「安心」して見に行って欲しいのです(と、見た人じゃないとわからないネタ)。