しかし別の地にて別の心臓は脈打ち、その望みと夢は私のそれと同様に貴い

上のリンクをクリックすると、 Amazon.co.jp の文学・評論ページに飛ぶはずで、右側に MATOGROSSO と書かれた画像があるのでそれをクリック、そして「ひきだしにテラリウム」とか「九井諒子」とかを見つけてください。
というような面倒な手順を踏まないと読めない、九井諒子ショートショート連載「ひきだしにテラリウム」。第11回目の「未来面接」は以前に九井のサイトで発表されていたもののリメイクでした。前のバージョンは九井さんの pixiv アカウントで見られますが、見比べてみると、マトグロッソ版の方が細部まで書き込まれているし、線も整っている。そしてマトグロッソ版の「小山透」くんの顔は明確に「主人公の顔」であり、それは「未来面接」という作品全体の指向や意図と合致している。パッと読んで、この作品がなにをやりたいのか(なにをどうやってオチにしているのか)がわかりやすくなっている。
リメイクの結果、読みやすくなっていて、わかりやすくなっていて、それはいいんですが。しかし、個人サイト版「未来面接」のラフな感じの方に惹き付けられるものもあったりするのです。
と書くと、なんかわざとらしい通好みみたいな感じになってしまうのですが、あるいはリメイクしてほしくなかったみたいに見えるかもしれないのですが、そういうことを言いたいのでは全然なくて、「作品」ってなんなんだろうみたいなことを、ふたつのバージョンの「未来面接」の印象(インプレッション)からちょっと考えていました。
とりわけショートショートのような「作品」だと、そこで表現(エクスプレス)されようとしているものが確かにひとつあって、つまりそれは「オチ」ということになりますが、「作品」として形を持つと、その形の持ち方によって作品はオチとは違うものも表現してしまう(読者へエクスプレスしてしまう)わけです。
といっても、オチとは別に、書き手が好き勝手自由に選び取れる「書き方」がいくつかあって、読者もそれをオチとは独立に取りだして読んだりできるということではなく、書き方はオチと密接に関連している、というか少なくとも読者は、それらが関連しているものとして、つまり「作品」としてしかそれに接することができないのですが。
「未来面接」についていえば、この作品のオチは「なんの面接なのか」にあり、その内容は両方のバージョンで同じなのですが、僕は個人サイト版の方により強く、九井の「面接試験へのオブセッション」を感じてしまうのでした。そのオブセッションが、マトグロッソ版では、クリンナップされることで弱まっているように思うのです。
「面接試験」というものを、入学試験や採用試験の方法というだけではなくて、「自分には意味や価値があるということを自分で言い立てること」と捉えてみましょう。
意味や価値があるというのは、逆にいえば、無意味に無価値に「ただある」のではないということです。
「この自分」は、ただここにいるのではないということ。いや、ただここにいるのだとしても、ただここにいるということは、ただそれだけのことではないということ。「この自分」を「自分の好きなもの」と置き換えたとしても、「ただいる」のではないことを主張する難しさは同じです。九井の『竜の学校は山の上』の表題作で描かれていたのは、その難しさでした。
「ただいる」のでないという主張することは難しい。しかしそもそも、なぜそのように主張しなければならないのでしょうか。それは実際に「ただある」「ただいる」のではないから、ということでいいのでしょうか。実際に、「この自分」を含めたすべてのものはただそこにあるのではない。それはしかし、「ただいる」だけではいられない、というまた別の難しさとしてあるように思われてなりません。「ただいる」だけではいられない、そのいられなさの現れが『竜の学校は山の上』収録の「進学天使」や「くず」だったと思います。
「ただいるのではないと主張すること」「ただいるだけではいられないこと」というこれらふたつの難しさは、後者の方がより本質的だと僕には感じられます。究極的にはこの世界は「ただある」だけのものでこの自分は「ただいる」だけのものなのですが、その「ただある」「ただいる」ことだけを独立に捉えるのは無理なので、自意識がある自分が「ただいる」に安住することはできないのです。「ただある」「ただいる」ことだけを独立に捉えるのは無理だというのは、読者にとって、作品からオチだけを取りだすのが無理なのと同じです。捉えようとすることそのものが、この世界の中のこの自分を、この世界から追い出し、この自分を他にあり得る無数の「自分たち」へと変えてしまうのです。
上のパラグラフで書いた内容は直接九井作品から読み取れるものではありませんが、ここで書いたようなふたつの難しさが九井作品において表現されていることは事実ではないでしょうか。それを「面接へのオブセッション」と呼ぶのは、『竜の学校は山の上』のカバー下、裏表紙の「集団面接」という九井作品クロスオーバー(というと大げさだけど)四コマ漫画からの思いつきにすぎないのですが。