切なさの刹那

10月30日の夜は新文芸坐で『「ボンズ」アクションアニメの世界』上映会。作品も、上映前の関係者トークも、面白くて満足で、しかし同時に、いくつか切なく感じたこともあったのだった。

切ないその1
トーク中、『ストレンヂア』の安藤監督が(『カウボーイビバップ 天国の扉』は今回新しくプリントされたフィルムできれいという流れで)「『ストレンヂア』のフィルムも状態いいですよ、それほど回されてないから」という自虐ジョークを飛ばされ、実際上映されたら『ストレンヂア』『カウボーイビバップ』に比べて『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』は明らかに画面が汚い(フィルムが劣化している)。さすが大ヒットアニメは違うなーと思うと同時に、『ストレンヂア』の不遇さに切なくなったのだった。
切ないその2
客入れや休憩の時に、劇場内では『カウボーイビバップ』のサントラが流されていて思い出したのだけど、僕はテレビシリーズや劇場版を(後追いで)それぞれ一回ずつしか見てないが、劇場版のサントラは結構聞き込んでいた時期があって、で、当時の我が身を振り返ると自動的に落ち込んでしまうのだった。『カウボーイビバップ』自体やサントラの内容とはまったく関係なく、単純にその時期の自分が燻っていたなー、と。しかし翻ってみるに今の自分も燻ったままだなー、と。
切ないその3

鋼の錬金術師』のアニメ第一作は原作漫画とはスタートは共有しつつも別のストーリー展開をしていて、特にテレビシリーズの終盤や劇場版で扱われる「錬金術がある世界」と「錬金術がない世界=『現実』世界」のパラレルワールド設定はアニメオリジナル、らしい。らしい、というのは、私はハガレンアニメ第一作を1クールぐらいしか見てないからで(漫画の方も十五巻ぐらいまでしか読んでないけど)、だから主人公兄弟が並行世界をまたがって別離している状態から始まる劇場版にはほとんど付いていけなかった。初期状態だけじゃなく、いかにも「テレビアニメの劇場版」という感じの、「テレビシリーズでおなじみのアイツやコイツの決着が今ここで!」的な、溜めや間のない(息も付かせない、というと褒めてる感じだな)展開にも完全に振り切られてしまった。プログラムピクチャーェ・・・という感じではあるが、切ないポイントはそこではない。振り切られようがおいていかれようが映画は楽しめる。それに、あそこまでネタや登場人物を詰め込むことの意図もなんとなくわかった(ような気がした)のだ。シリーズの因縁を全部「錬金世界」においてきて、「『現実』世界」で兄弟いっしょというラストからは、「錬金世界」からの漂着物にまつわる厄介ごとをトラブルシュートする元錬金術師兄弟の、若干スチームパンク入った冒険譚! という続編企画が見えたのだ。見えたというか、それが見たくなった。今回劇場版を見たことでテレビシリーズにもちょっと興味を持ったのだが、どちらかというと劇場版以降の(「『現実』世界」での)兄弟の話の方がそそられた。もちろん、それハガレンじゃなくていいじゃん、とは思うし、実際、(我々のこの「現実世界」でのw)ハガレンのメディア展開は原作に忠実な(ハガレンという名前である必要のあるハガレン)アニメをやり直すという方向になった。今後アニメ第一作の延長としてアニメが作られることは(この世界では)きっとないだろう。それが切ない。この劇場版を格段に面白いと感じたわけではなく、ハガレン(のアニメ第一作)に強い思い入れがあるわけでもなく、「原作に忠実なハガレンアニメ」が存在する現在から第一作劇場版を見ると「あり得たかもしれない」(幽霊的な)続編が特に意識されてしまう、という話である。

と書いてきたが、実は話はそう単純ではなく、劇場版自体が(脚本を担当した會川の?)オリジナルアニメ用の構想を流用して作られたらしい(ウィキペディア情報ですけど)。「劇場版の続編」の水子性は、単にハガレンのメディア展開に起因するだけものではないということである。だが、ハガレン劇場版に上書きされた元々の「オリジナルアニメ」を悼む気にはなれなくて、これが何故なのか、この切り分けの明瞭さ(非情さ)が我ながら面白い。