tilling until it reaches to the starry heaven(耕して天に至る)

『ベティ・ザ・キッド(下)』の帯のコピーは「秋田禎信ライトノベルを解脱。(レフトビハインドです)」でひとつ。

余談

抜けていった作者、略して抜け作。輪をかけて輪作。

追記1(10/26)

実際は「迷わず殺せ」となったようだ

追記2(10/26)

「作(さく)」で終わる熟語には二つの系統があり、ひとつは耕作における手法に関する語のグループと、もうひとつはより広い意味での生産、とりわけ(芸術)創作についての語だ(ほかに、「作」を「さ」と読み人間の動きにまつわる語群もある)。「連作」はどちらの文脈でも用いられ意味も近いが、このような語は稀であって、例えば作物の収穫が少ないこと(不作・凶作)を「寡作」とは呼ばずもっぱらこの語は作品の少ない作家のために使われる。「意欲作の人参」とは言わないだろう。「自信作の米」ならばまだ使われるかもしれないが、このような「既存の二文字熟語+作」のほとんどは芸術作品を形容するさいにその都度そのつど作られるものであって、作物に用いられることは少なく、また辞書への記載も少ないようだ。「出世作」がかろうじて辞書に載るような熟した言葉と言える。
この記事を書くにあたっては、ずっと以前に目にした「(農家と同じように)作家にとっても連作障害は深刻だ」というような文言が念頭にあった。この言葉は、たしか士郎正宗殊能将之どちらかのものだったと思うが、記憶にまったく自信はない。森博嗣だったかもしれない。ともあれ、上記の文言が印象深かったのは、語の近接にも関わらず(むしろだからなのかもしれないが)耕作と創作では用語が混じることがない中で、耕作を創作のメタファーとして使っていたからだ。上の出典は『金田一少年の事件簿 雪影村殺人事件』のカバー袖のさとうふみやのコメントでした。
「抜け作」の「作」は耕作とも創作とも関わらない、人名的にするためのもののようである。この記事の言葉遊びでは「抜け忍(忍者をやめた忍者)」を前提としていて、殊能将之のtwitterで「抜け小説家」というジョークが使われていたことがあったはずだ。