草間さかえ『災厄のてびき』

8月25日に草間さかえの新刊『地下鉄の犬』が発売されるからというわけではないのだが、8月の頭に草間の商業デビュー作『災厄のてびき』を再読した。とても面白いし、最初に読んだ草間作品ということで思い入れもあるが、それはそれとしてこの本は草間さかえ諸作品の中でも特別な位置にあると思う。ただ、それはいわゆる「デビュー作に作家のすべてがある」というような意味ではないかもしれないとも思った。
『災厄のてびき』では冒頭を飾る表題作を始めとする「てびき」連作四話がとりわけ印象深い。この連作では「火事以外は何がどーでも良かった」少年・宮沢幸宏が小説家・平尾武明と火事現場で出会い、成り行きで恋愛関係となった結果「平尾さんといると楽しいなぁ」と言うに至る過程が描かれているのだが、この宮沢というキャラクターが素晴らしいと思う。宮沢の、「火に欲情する」以外の内面を窺わせない色の薄い黒目、それのみによって「てびき」のプロットは駆動しているといっても良い。
「男子三日会わざれば刮目して見よ」と言われるような絶え間ない変化を含み変化の内にある存在として「男子」「少年」があるとすれば、「てびき」の宮沢幸宏は正にそのような存在だと言える。それは一話一話で彼の着ている服が違うという点で端的に現れているだろう(学生服姿の宮沢は第一話でしか見られず、彼がブレザーを一揃い着ているのは第三話のみである)。少年から青年へ、中学生から高校生へ、(平尾にとっては)放火容疑者から恋人へ。そのような宮沢の変化にあえてひとつの切断線を引くとすれば、それはちょうど第二話と第三話の間になるだろう。第一話、第二話では性行為において平尾のなすがままだった彼は、第三話の頭においては平尾の疲れマラを自ら口に銜えており、その後平尾をベッドに引きずり込む。平尾に絡み付く宮沢の四肢は長く、第一話の濡れ場で見せたショタショタしい身体つきと比べれば明らかに青年のそれである。街頭で初めて会話を交わしているシーンの二人は優に頭一つ分の身長差があるが、第四話の平尾邸ダイニングでの言い合いではもはやそれほど目線の高さが違うように見えない。
宮沢幸宏のキャラクター描写がこのように変態していくのとともに、第二話と第三話にはまた別の変化が見られる。それは描線の太さである。第一話からして最近の草間の描く線と比べれば明確に太いのだが、第三話からはそれがより太くなる。このことを、旧版『災厄のてびき』のあとがきで草間は「てびき」の3から作業工程の変更がありまして、加減ができておりませんと説明する。この後草間は『はつこいの死霊』の連載を経る中で描線を細くし人物の顔の輪郭を面長にするようになって、現在草間さかえの漫画としてイメージされる作品を描くようになるのだが、その移行の端緒が「てびき」第二話と第三話の間にあると思われる。つまり宮沢幸宏というキャラクターは意図的な描写の経過に加え、意図せざる作者自身の変化の内にあり、それを抱え込んでいる。

『災厄のてびき』とそれ以後の草間の単行本との間に見られる差異は、描線の太さや人物の顔の輪郭の他に、丸いふきだし以外のところの写植文字、すなわちモノローグの多寡や役割にもあるのではないだろうか。「てびき」シリーズにおいては第一話に平尾によるモノローグが2シーン、第四話に宮沢兄が刑事に対応しつつ弟の置かれた状況を推理するモノローグが1シーン見られるのみで、いずれもプロットを進める役割を担うような「語り」としてあるのではない。「てびき」のモノローグの扱いが軽いことは他の単行本と読み比べるまでもなく同じ『災厄のてびき』に収録されている「ピンナップ・スタア」を読めばわかるだろう。「ピンナップ・スタア」は自分の兄と友人の情事を窃視する主人公(語り手)・尊のモノローグが、それによって物語(ナラティブ)が構成されるという文字通りのナレーションとなっている。『災厄のてびき』以外の単行本に収められた作品の多くはナレーション(語り)化したモノローグを持つ。
この違いは何から生まれたのだろうか。登場人物の内面を彼自身の言葉によって明らかにしつつそれによって話を進めるという手法はページ数の限られる読み切り短篇漫画ではきわめて効率的であると言える。『はつこいの死霊』連載終了後の草間は多くの出版社、雑誌をまたがって読み切りを散発的に発表するようになり、現在刊行されている草間のコミックスの過半はそのように発表された短篇をまとめたものである。連作である「てびき」とそれ以外の作品に見られるモノローグの持つ意味合いの違いは、発表形態の違いに起因するものと考えることはできる。また、「てびき」と「ピンナップ・スタア」とを比較するのであれば、新版『災厄のてびき』に付け加えられた草間による各話解説の「ピンナップ・スタア」の欄で次のように書かれていることを見逃すことはできないだろう。

人間として問題のある人達の話を続けて描いてきたので、もう少し人間的な人達の話にしてみました。

「てびき」シリーズ(と「てびき」「ピンナップ・スタア」の間に挟まれた「散髪唱歌」)は「人間として問題のある人達の話」であるという。「てびき」でプロットの焦点(「彼は本当に放火犯なのか?」)となる宮沢の内面のみならず、他の登場人物の内面もまたモノローグによって語られることが少ないのは、「てびき」が人間的じゃないキャラクターたちの物語だからであると言うことができるのではないか。

草間のコマ割りが独特とされるとき、多くはコマ間に空白を開けないことを指しているのだと思うが、より重要なのは縦長のコマを多用するということの方だろう。そしてそれはページを縦に区切ってページを構成するコマ割りを導く。より重要というのは、縦長のコマは草間の描く構図やアングルの自由度を生んでいるからだ。また、草間の描く男性キャラクターの多くが高身長に設定されていることとも関係しているはずだ。『イロメ』収録の「カオス」前篇には、ページの高さをすべて使ったコマと四コマ漫画のように下へ続くコマのまとまりが交互に並ぶコマ割り(これが「縦に区切って構成する」ということだ)が四ページ続く箇所があるのだが、そこは高校卒業後急激に身長を伸ばした壬生谷というキャラクターが初登場するシーンであり、彼の体格の成長は物語上大きな意味をもつ。
四コマ漫画のように下へ続くコマのまとまりとさきほど書いたが、日本の漫画の基本のコマ割りとされているのは左へ流れるコマのまとまりである水平な「段」によってページを構成する考え方だ。草間作品においてもやはり段があるページの方が多い。ところが「てびき」の場合、ページを段で区切った上で、段内で上下にコマを割って視線の流れが複雑になっているページも多々見られる。前述の「カオス」の1シーンに見られるような、ページを縦に区切る傾向に自覚的な表現(コマの高さを極端に変えることで縦方向の流れを強調する)に至る前の、潜勢態として「てびき」はある。