最近読んだ本

鬼哭の剣―日向景一郎シリーズ〈4〉 (新潮文庫)

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ゾンビ日記

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なまづま (角川ホラー文庫)

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2ch 哲学板永井均スレで紹介されていたので読んでみた。「永井的問題意識につながるような内容」というのは、作中で二度あらわれる「まさか、自分がこっち側になるなんて」という表現に集約されるでしょう。でも私は、この表現が永井っぽい、ということよりも、初めに述べられた「まさか、自分がこっち側になるなんて」を、そう述べた存在の「無意識」の「アピール」だと感じたという主人公の語りについてひっかかった。そいつって「無意識」を想定していい相手なのかあ?(設定的にはいいということになってるけど) しかし、最初「まさか、自分がこっち側になるなんて」というそいつに「無意識」を想定する主人公の語りと、後の方の「まさか、自分がこっち側になるなんて」に心動かされ、あるいは「永井的問題意識」を読み取ろうとする私たち読者の読みとは、パラレルな関係にある。ここでかいま見られるのは、なぜ私たちは小説が読めるのだろうか、という問題だ。
まわりくどく書いてますが、なぜこうなるのかというと、もちろん問題が私の手に負えてないということもありますが、ネタバレを避けたいがためでもあります。設定(ヌメリヒトモドキ)と記述のされ方(一人称小説)を考え合わせればもう……いや、だから、私がこの小説でいちばん感じ入ったのは、最初の「まさか、自分がこっち側になるなんて」でも最後の「まさか、自分がこっち側になるなんて」でもなくて(だから「永井的問題意識」なんかではなくて)、この小説が、亡くなった愛する人をよみがえらせようとする物語だということだ。その試みがどんな結果を招くのだとしても、そしてそれがどのように描かれようとも関係なく、そもそも誰かが「あの人をよみがえらせたい」と思い切った様が描かれているというだけで、心動かされてしまうところが今の私にはある。なにが言いたいかというと、秋田禎信『機械の仮病』第一話は、「あの人をよみがえらせたい」と思い切ることができない男の話だったなあ、ということだ。死者蘇生の望みが、どれだけ愚かかやどれだけ罪深いかやどれだけ慎みがないかやどれだけ反社会的かについては、いろいろな観点からいろいろと言えるだろう(この小説の主人公もいちいちそれらを意識し、言い訳する。たとえば、彼がよみがえらせたい当の妻本人へも、彼は言い訳を取り繕う)。しかし、死者蘇生を心底から求めることができるということには、いろいろと言うことができる愚かさや罪深さや慎みなさや反社会性という「わるさ」を超えて、ある「よさ」があると思う。逆に言うと、死者の蘇生を心底から求めないということには、それが宗教的に、倫理的に、あるいは社会的にどれほど「よい」ことだとしても、それらを超えた「わるさ」があるように思うのだ。
幼少の帝国―成熟を拒否する日本人

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独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

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星座から見た地球

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僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか? (星海社新書)

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脳のなかの倫理―脳倫理学序説

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略して『のうりん』。